長崎の、4歳児殺害事件は、そのむごさから、ここのところ頭から離れず、テレビをみるのがつらい。

鴻池大臣の「親を市中引き回し」発言も、殺人事件を犯した本人がまったく罪にとわれない現在の刑法からみれば、被害者の両親の心中は一体どうしてくれるのか、というところを代弁したつもりが、表現が大きくなってしまったのだろう。しかし、事件の発端はやはり家庭を含めた成長過程の中ではぐくまれたことは間違いのないところだと思う。

ところで、このような事件がおこる下地は私の住む団地の周囲にもあり、このような事件の発生を予感していたが、「やはり起きたか」といった心境である。

子供達が、子猫の目をつぶしたり、逆さにつるして放り投げたり、むごいことをして遊んでいたのを、厳しく叱責したことがあるが、問題はその両親である。
このようなことに対する両親からの叱責が殆ど無いし、無関心である。この親たちの仕業かどうかははっきりはしないのだが、真冬に、のら猫たちがからだを寄せ合っている小屋に大きなドライアイスの固まりを投げ入れたり、水をかけたりする行為が続いていた。

猫はきらいだから、団地から「消えてくれ」という、一部住人の仕業である。団地自体、「猫にえさを与えるな」という方針だから、このような人間達の行為がエスカレートしてくる。

「えさを与えなければ、今は、ゴミを袋詰めにして定期的にしか出していないから、飢えて死にますよ」
「死んだ方が良いんだよ」
「相手は生き物ですよ」
「たかが、のら猫だろ。俺は猫が嫌いなんだ」
「あなたが嫌いだからと云って、猫を飢え死にさせる理由にはなりません」

このような問答が時たま起きる。
大人達が、猫を殺せと云うのである。
家庭でも、このような話題があるのだろう。

「俺は猫が大嫌いだ!」
「そうね、臭いものね」と、その女房。
「何とか、この団地から追い出したいな」
「えさをやっている連中がいるから、いけないんだ」
「団地の事務所に云って、禁止させましょうよ」
「えさをやらないと、死んじゃうよ」と、その子供。
「死んだ方が良いんだ、団地がきれいになる」
「この間、猫が、寒さで凍え死んでいたって・・・」
「そうか、一匹減ったな」

子供達は、このような環境で育っていく。生き物をいじめ、殺すことを何とも思わないどころか、むしろ、良いことだと思いだしている。殺すという後ろめたさはあっても、親たちの会話が無意識に背中を押して、その行為に走らせる。

「あなたは、たまたま、人間の皮をかぶっているけれど、もしかすると、のら猫に生まれていたのかも知れないのよ」
「何を言うんだ、俺はリッパナ人間だ。くだらないことを云うな」
「いえ、自然が、たまたまあなたを人間にしただけであって、何に生まれていても不思議はありません。そのことを考えたら、生き物を、ましてや、身の回りにいる生き物を見殺しになど出来ません」

不毛の会話が続く。しかし、このような両親の元で育った子供はその生き方を引き継ぎ、猫を殺すのは勿論、人を殺すのに抵抗感が薄れていく。

身近で起こっている「ねこ騒動」を見ていると、この親にしてこの子あり、鴻池大臣の「親を市中引き回しにしろ」の言葉が納得されてくる。
 


にほんブログ村 健康ブログへ
にほんブログ村・ランキング参加中。皆さまのクリックが頼りです。何とぞクリックを!!!