このブログのメイン記事のひとつである 【今日は何の日】を編集していて気付いたのですが、今日、4月23日は、6代目尾上菊五郎が日本橋茅場町に日本俳優学校を開校した日なのですね。
【今日は何の日】を毎日編集していると思わぬ出来ごとに出くわすことが多く、知らなかったことの多さに愕然とすることがあります。
昨日、4月22日は1950年に第一回ミス日本コンテストが行われた日だったのですね。 このコンテストで山本富士子さんが初代ミスに選ばれたことは、筆者の同年代の人たちならばみんな知っている事柄です。
しかし、今から遡ること約100年、1907年(明治40年)4月22日に、アメリカのシカゴトリビューン紙がミスワールドコンテストを企画。日本から選ばれたのが、末広ヒロ子さん。学習院在学中の16才。このことが原因で学習院を退学になるが、当時の院長が乃木希助だった・・・・ と、いうような話は、【今日は何の日】を編集していなければ、まず、知りえない話です。 これにはいろいろな後日談があるので記事を参考にして下さい。
◆話が飛びましたが、6代目尾上菊五郎が日本俳優学校を開いたという話・・・
この6代目尾上菊五郎と日本俳優学校の話は、ウイキペディアにも、1行程度しか載っておらず、記録が非常に乏しいのですが、唯一、大成建設のサイトにかなり詳しく載っていました。
大成建設の担当者が週刊新潮に「タワークレーン」の表題で様々のトピックを載せていたその一つに、「六代目 菊五郎と俳優学校」として、詳しく載っていました。 3回にわたり記載されておりますが、その一回目の一部を引用させて頂きます。
「・・・・・彼の舞台には当然、客席から屋号の「音羽屋」の声が多数掛けられた。ところが、昭和五年からの数年間、音羽屋にまじって「校長先生」という声が掛かったことがある。(写真は六代目菊五郎)
この期間、六代目は本物の校長先生だったからである。彼はかねてから役者・俳優を養成する学校を設立する構想を持っていた。自分の芸を研鑽するだけの昔気質の人ではなく、日本の演劇界全体の将来を考えている近代的な感覚を持った人でもあった。
昭和五年四月、折からの不況にもめげず日本橋茅場町のビルの二階分を借りきって四年制の日本俳優学校を開校した。生徒は役者の師弟以外の一般からも募集した。
講師には守隋憲治・山本有三・浜村米蔵などの演劇研究家や劇作家、一流の舞踊家や邦楽家さらに歴史や地理、外国語の専門家もそろえた。校長・六代目も「倫理」を受け持ったが中身は芸談で、これが生徒以外にも好評だった。
「種はよし、話し方は面白し、」生徒は何よりこの時間を喜んだ。私なども校長の倫理のときには缺かさず教場へ詰めかけた」。講師で演劇史を受け持った渥美清太郎著『六代目菊五郎評傳』(冨山房)の一節である。
同校は翌年十一月、浅草橋場にある三階建ての建物を買収して移転した。」
◆なぜ、菊五郎の俳優学校の話をこれほど詳しく載せるのか・・・・・?
歴史の片隅に埋もれてしまった、ウイキペディアにも載ってないような話なのに・・・・
答えは簡単、筆者の父親と母親は(勿論、当初は独身同士で、互いに知る由もなかった)設立したばかりの俳優学校の生徒として入学しました。この学校で二人は知り合い、筆者が生まれることになったのです。
これで理由はお分かりでしょう。 個人的などうでもよい話に時間をとらせるな! はい、分かりました。
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